地理と心理上の「距離」

明日の午前中成田空港から飛行機で福岡に帰る。しかし、どうも「帰る」という言葉があまりしっくりこない。私は「生まれ」は福岡なのだけれども、「育ち」が東京なので、故郷の記憶がほとんどないのだ。

さらに困ったことに東京で過ごした幼少時の記憶も消失し始めている。先日幼なじみと忘年会をしたのだけれども、その時30年来の友人から「小さいころ階下のアパートに辻君っていたよね?」と言われたのだけれども、全く思い出せなかった。私の階下に住んでいた「辻君」…。

さて、話をもどすと、父母がいるから年末年始福岡に帰るけれども私には福岡の記憶がほとんどない。父母にそんなに会いたいかと言えば、顔を会わせようと思えば今はスカイプなどでいつでもどこでも顔を会わせて会話できるので、「再会の喜び」も大して…。となると、一体何で私は「帰る」んだろう?

東京-福岡間は飛行機で2時間ほどの距離。なので大した距離はないのだけれども、私にとって福岡は「地理的な距離」以上に「心理的な距離」があるので、帰郷することが非常に少ない。

『論語』学而篇には、

有朋自遠方来。不亦樂乎。

友人が遠いところからやってきた。なんとうれしいではないか!

とあるけれども、今では遠く離れてなかなか会えない人と久しぶりに再会する時のこうした感慨はなかなか感じにくいと思う。通信機器の発達で東京の名も無き一市民の私でさえ海を隔てて何千キロも離れている中国の「網友(ネットフレンド)」たちと日々気軽に会話できる(友達になれる)時代だ。国内の友人であればなおさらのこと。

しかし、通信機器の発達が地理的な距離(限界)をとりはらってあらゆる人と交流しやすくなっている今だからこそ、改めて「家族とは何か?」「友人とはなにか?」という素朴な問題が問われているような気もする。

「地理と心理上の「距離」」への3件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です