達なる者、聞なる者(実と名)

聞達(ぶんたつ)という言葉がある。世間で評判になること、有名になること、の古めかしい言い方だ。諸葛亮の前『出師(すいし)の表』に「不求聞達於諸侯(諸侯に名を広め・仕官しようとはしなかった)」とある一句は結構有名だろう。

実はこれまで「聞」と「達」の意味を分けて考えたことはなかったのだけれども、『論語』顔淵篇には孔子がこの二つの語の意味をわざわざ分けて説明している一節がある。

そこでは子張が孔子に「達」について尋ねており、子張はそれについて「国にいてもきっと評判がよく、家にいてもきっと評判がよいことです。と自分の考えを述べている。しかし、この意見に対して孔子はそれは「『聞』であり『達』ではない」、と答えている。孔子によると「達」と「聞」には次のような相違があるという。

「達」……まっ正直で正義を愛し、人の言葉をよく考えて顔色を見抜き、気をつけて人にへりくだる。

「聞」……うわべは仁らしくしているが、実行はともなわず、現在におちついて疑いをもたない。
              (金谷治『論語』、岩波文庫、を参照)

どうやら「達」は仁・正義を身につけて中身・実行力のともなった人(士人)だが、「聞」は仁・正義を表面的にしか身につけていないため、名は知られていても中身・実行力のともなわない人でしかない。

つまり、人物の価値としては「聞」より中身のある「達」の方が大分ランクが上ということになる。「聞」の人はそれこそ有名であっても実行力がともなわないので、『週刊文春』などにその素行をスクープされてしまえばそれで「一巻の終わり」となってしまうかもしれない……

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