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友人と仲間(君子と小人の交わり)

先週の土曜日にこのブログを作ってくれた友人M君の結婚披露宴に親友とともに参加してきた。M君は小学校時代の6年間を共に過ごした。会場はアクア ヴィット東京店

M君とは小学校卒業以来、接触する機会はほとんどなくなっていたのだけれども、親友を介して昨年たまたまこのブログを作ってもらった。彼とそのパートナーは彼らの業界ではかなり名を成していて、会場に来た人も社会的な認知度がかなり高い方が来ていた。

ただ私にとってM君はいまだ小学校時代のままのイメージで、直接会話するときも小学校時代のあだ名で読んでしまう。披露宴の時、親友にもM君のイメージを聞いてみたが、彼も私と同じく「優しいやつ」というイメージを持っていた。

披露宴に参加している時、親友とM君と私は「友人」の関係にあると思った。小学生時代というのは、社会的な肩書を背負う以前のころなので、その時代をともに過ごした人には今から考えると「素のまま」の自分を見せられていた気がする。

中・高とは大した人間関係はできず、大学に入学してからまた人間関係が広がったけれども、その関係は「仲間」にしかなっていない。

「友人」と「仲間」はどう違うのかという問題があるけれども、直感的に言うと「友人」は何か特に共通の目的がなくても気になったり、困っているときは助けたくなるような人々。「仲間」は何か共通の目的があって集っている人々で、共通の目的に向かって行動している限り助けあうけれども、その目的を共有できなくなった時は関係が解消するような人々。

大学時代は「仲間」はたくさんいたけれども、「友人」はほとんどできなかったので、大学卒業後は中国で暮らしていたこともあり、大学時代の人間関係はどんどん疎遠になっていった。

さて、『荘子』山木篇には、「君子(くんし)」と「小人(しょうじん)」を対比させ、理想の人間関係を説いた下のような一節がある。「君子」は立派な人物、「小人」はつまらない・くだらない人物の意味。

君子の交わりは淡々として水のようだが、小人の交わりはうまみがあって醴(あまざけ)のようである。君子は淡々としていてそれで親しみ深いが、小人はうまみがあってそれでこわれてしまう。あの深い理由もなくて結ばれた仲間は、また深い理由もなくて離れていくものだ。
(出典:金谷治訳注『荘子』第三冊、岩波文庫)

この一節は自分が迫害される度に弟子や友人が離れていくという悩みを告白した孔子に対してある人物が答えた部分。小人との人間関係は「うまみ(甘)」、つまり「利益・損得勘定」でつながっているものだから災難が起こるとその関係は疎遠になってしまうものだと説いている。

しかし、君子との人間関係は利益・損得勘定とは異なる「天然自然」でつながっているものだから少々の災難ぐらいでこわれることはない。これを読んでいると「君子」の人間関係は「友人」的なものに近く、「小人」の人間関係は「仲間」的なものに近いかな、という気がした。

実際問題「利益・損得勘定」の介在しないような友人関係=君子の交わりをつくるのは難しいのだけれども、それを目指していきたいとは思う…