タグ別アーカイブ: 論語

蛭子能収『蛭子の論語―自由に生きるためのヒント』読了

蛭子能収(えびす よしかず)『蛭子の論語―自由に生きるためのヒント』(角川新書、2015年)を読み終えた。蛭子さんは1947年生まれで著名な漫画家・タレント。

蛭子さんは2014年に『ひとりぼっちを笑うな』(角川新書)という本を出してヒットさせているが、その後同書の編集者から「蛭子さんの考えは孔子さんの思想に通じるものがある」ということで「次は『論語』を読んでみませんか?」という連絡(依頼)があったそうだ。蛭子さんは最初「えっ? ロンゴ? 何ですかね、それ?」という感じで意味も分からなかったそうだが、最終的に依頼を断りきれず(しぶしぶ)本を出すことになったという(笑)。

蛭子さんは中国思想はもちろん全く門外漢なので、『蛭子の論語』には孔子の思想や『論語』の内容について立ち入った記述はほとんどない。本書は『論語』からのフレーズを借りて「蛭子さんの思想」が語られるといった構成になっている。ただし、蛭子さんが『論語』のフレーズに対して違和感を感じたところは、その持論がところどころ展開されていてなかなか面白い。

さて、蛭子さんにとって最も大切な人生の信条は「『自由』であること」(p154)だという。しかし、同時に「自由に過ごすためには、やっぱりお金がいる」(p166)ということも十分自覚しており、「僕は、とにもかくにもお金を信じる”現実主義者”」(p187)だと語る。蛭子さんは贅沢には全然興味が無いものの、70歳が見える年齢になった今も「お金からはなかなか自由になれない(老後の生活不安)」(p165)と感じて仕事がある限り働き続けようとしている。

『論語』にはこうした「お金」の問題を正面から論じた記述はほとんどないが、蛭子さんのような悩みを抱える人に対し、孔子なら今どうやって声をかけるだろうか…

加藤徹『本当は危ない「論語」』読了

加藤徹『本当は危ない「論語」』(NHK出版新書、2011年)を読了した。著者は1963年東京都生まれ。東大で中国文学を専攻、現在(執筆時点)は明治大学法学部教授。

著者によると「本書は、読者が自分の目で『論語』を読む(あるいは読み直す)ための、補助的な解説書」(「はじめに」より)にしたとあり、その章立ては次のようになっている。

第1章 『論語』誕生
第2章 孔子の謎
第3章 危うい『論語』の読み方
第4章 革命の書『論語』と日本人

本書は『論語』そのものの「内容解説」に重心を置いて書かれたというより、「『論語』の読まれ方の歴史」を解説することを目指して書かれた一書と言えるだろう。したがって、『論語』の内容についてよく知りたいという方が読むと、話が大分脇道にそれていく、という印象を受けるかもしれない。

本書を読んで共感した点を一つ挙げると、著者が改めて『論語』には「意味不明の句」が多いと指摘し、「原『論語』の述作者が誰かは不明だが、文章能力はそれほど高くなかったようだ」と主張している部分だ。

『論語』というのは、後の中国古典と比べると完成度があまり高くなく、ところどころ意味不明の句やどうとでもとれる文章が出現する。文章全体の配列もさほど意味があるとは思われない。これは明らかに時代によるもので、その編纂過程が非常に複雑だったからだろう(「第1章  『論語』誕生」参照)。しかし、こうした『論語』特有の原始的な「素朴さ」が後の中国古典には少ないある種の「親しみやすさ」を生んでいるのも確かだ。『論語』は未完成ゆえに可能性を秘めているテキストなのかもしれない。

毎日少しずつ自分を変える―孔子の「社会変革論」

マイケル・ピュエット クリスティーン・グロス=ロー共著『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(早川書房、2016年)という本を読んでみた。

マイケル・ピュエット氏はハーバード大学の教授、クリスティーン・グロス=ロー氏は同大学で博士号を取得したジャーナリスト。本書は両氏による中国古代哲学についての解説書で、6月5日現在(刊行は4月)アマゾンの「諸子百家・儒教・道教」部門で1位、「東洋思想」部門でも4位とヒットしているようだ。

個人的に特に面白かったのが著者が改めて「孔子がなぜすごかったのか」について触れている第3章「毎日少しずつ自分を変える―孔子と〈礼〉〈仁〉」で、このように語られている。

わたしたちは、世界を変えるには大きなことを考えなければならないと思いがちだ。孔子なら反論もしないかわりに、おそらくこうも言うだろう。小さいことをないがしろにしてはいけない。「お願い」と「ありがとう」を忘れてはならない。人々が行動を改めることなしに、変化は起こらない。そして、人々が行動を改めるには、小さいことからはじめなければならない。(75頁)

人生は日常にはじまり、日常にとどまる。その日常のなかでのみ、真にすばらしい世界を築きはじめることができる。(76頁)

儒学の基本的な考え方を表す「修身・斉家・治国・平天下」という言葉がある。春秋時代末期という混沌の世(乱世)に生きた孔子にとって、最終目的はもちろん国家や天下の安泰(治国・平天下)だったのだろうが、だからといって彼は「国家論」をひたすら展開するというような人物ではない。

『論語』では体系的な「国家論」よりむしろ日常生活における対人関係上のこまごまとした「あるべき振る舞い方(行動パターン)」が語られている。『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』ではそれを「〈かのように〉の礼」と名づけている。「〈かのように〉の礼」が大切なのは、孔子が日常生活での自らの振る舞い方を改めることなしに国家を変革することなどできないと考えていたからであろう。

たとえば、われわれは「日本社会を変えたい」と感じた時、国政選挙で「政権交代」を起こせば社会が変わるのではとついつい考えがちだ。この考え方が間違っているというわけではないのだけれどもわれわれが国政選挙で投票に行ったぐらいでは社会はなかなか変わらないだろう。

もし孔子ではあれば次のように説くのではないだろうか。「大きな問題をまず考えるのではなく、あなたの日々の生活態度を見つめなおして修正し、自分の関われる地域(村・町や市)であなたが変革を実現することを最優先させなさい」。自分の日々の振る舞い方や自分の住む地域を改めることなくして日本社会(天下国家)を変革することはできないのだ。だから政権交代を実現して自分の日々の暮らしをよくしたいというのはある意味では本末転倒の発想と言える。

そして本当に難しいのは大きな問題にとりくむことよりも「毎日少しずつ自分を変える」という身の回りでの日々の実践活動なのだ。個人的にはこうした発想が『論語』という書物を骨太な古典にしているのだと思う。